
上の写真は、2021年の1月、上越市内での雪降ろし模様です。
これは、ここでご紹介する安塚の古民家ではなく、安塚より雪の少ない平野部にある民家です。(本サイトでは、安全性等の問題から、ご紹介させていただく古民家の住所や外観画像を、公開しません。)
ちなみに、上越タウンジャーナルの情報では、上越市高田(中心街)の1981~2010年における積雪平均値は635cmです。
上越市が世界一の豪雪都市と報じられる理由の一つには、安塚での966センチという積雪記録があります。
上の写真の積雪は2~3メートルですから、積雪10メートルの情景は想像を絶するものがあります。
想像不能なほどの厳しい豪雪に、長年耐えて続けてきた堅牢な古民家が遺る安塚は、豪雪地上越のなかでも、特に、たいせつ古民家の宝庫と言えます。
そんな安塚のたいせつ古民家は、日本各地に移築され、名建築に生まれ変わっています。
例えば、下の書籍「古民家再生物語」で再生された山梨の古民家は1911年(明治44年)に建てられた「薮井家」を安塚から移築再生したものです。

今年も、安塚から移築された古民家が一軒、軽井沢の大邸宅に生まれ変わりました。
今回ご紹介するのは、安塚のたいせつ古民家のなかでも、山を上った見晴らしの良い立地に建つ、地元名家のご本家のお宅です。
高い山の上に、重機もない時代に、どうやって立派な家を建てることができたのでしょうか?
丸山事業さんが教えて下さった理由が以下です。
・山間地の庄屋さんたちは、用水路が開発される前の時代に、雪深い山の潤沢な雪解け水の恵を受けた豊富で良質な水源を保有していた
・太く重い立派な木材は、大勢の小作人さんたちの力で山の上まで担ぎ上げられた
・重い木材を雪の上を滑らせて運び上げる方法がとられた
先日、こちらの名家のご一族から、上越市教育委員会による鑑定済みの、江戸、明治、大正期などの歴史的価値ある古文書が、上越市に寄贈されました。ご一族によると、40~50年ほど前に、日本刀が家にあったことが、幼少時のご記憶にあるそうです。
4階まで登れる11Kの大きなお屋敷の間口は11間(約20メートル)と広く、奥行きも7間(約13メートル)あり、北側には湧き水の澄んだ池があります。
屋内に入り、まず目をひくのは、せい(高さ)が一尺四寸(約42㎝)の分厚く立派な欅の差鴨居です。
12.5畳の客間の南北西の三面、その東側の10畳の部屋の南北二面、12.5畳の仏間の南面等にその欅の立派な差鴨居が巡らされています。
そして、何本もの八寸角(約24㎝)の太く見事な欅柱が、要所でこの大きな家を支えています。
このような立派な欅の柱と欅の差し鴨居の構造だけからも、名家のお宅であることが見てとれます。
下の写真は客間南面の差鴨居と欅柱です。立派な差鴨居に塗られた漆の黒い光沢が美しいですね。

下の写真は、客間北面です。客間の南北の立派な差鴨居は、一本の欅の木から採られていると見受けられます。

下は、客間北面の差鴨居の裏面を、隣の仏間から見たものです。

下の写真は、この客間と仏間の境にある差鴨居を下から見上げたものです。
左(仏間側)は、芯(木裏:きうら)側。右(客間側)は、芯から外れた(木表:きおもて)側です。
この断面からは、左側に芯がある太く立派な欅の木の姿が、想像できます。

このことからわかるのは、この立派な欅の差鴨居は、芯去り(しんさり)材を使用していることです。
これは客間南側の差鴨居についても同様で、客間の南北一対の差鴨居に、欅の芯去り材が使われています。
芯去り材は、反りや収縮が起きにくいという点で優れています。
客間の差鴨居に立派な欅の芯去り材を使い、見た目が美しい木表側を客間側に、木裏(芯側)を仏間に向けていることに、当時の大工さんの深い造詣が見て取れます。
そして、このような欅の巨大な芯去り材を確保することは、非常に困難です。
丸太を切断して長い木材を採り出す場合、切断断面の面積が最も大きくなるのは、丸太の中央の芯の部分です。(芯の部分を活用する製材方法を「芯持ち(しんもち)」と言います。)
丸太の芯から離れるほど、大きな断面積の材を確保することが、難しくなります。
欅の芯去り材を、これほどの大きさと長さで確保し、差鴨居として活用していることは、当邸の家主ご一族の格を示していると言えるでしょう。
当邸の差鴨居について、もう一つ興味深いことがあります。
仏間の南(写真左)側は欅の差鴨居であるのに対して、西側(下の写真の3枚の障子戸の上)は松の差鴨居と、材が使い分けられているのです。
そして、松の差鴨居を使っている理由は、松に「待つ」を意味を込めていると考えられます。

この松の差鴨居を挟んで仏間の外側には、お坊さんが出入りする縁側がありました。
また、仏間の縁側には、お盆に盆提灯を吊るす習慣があります。
この松の差鴨居のある位置は、お盆にご先祖様の魂のお帰りを「待つ」場所なのだと推察されます。
歴史ある立派な古民家からは、現代では失われた大切なことを学ぶことができます。
また、同じ仏間の西側にあるガラス戸の、最上部の組子のデザインは松葉です。
こんなところまで、松で統一されているのですね。造作の細やかさと、そこに込められた先人の想いに、すっかり感心してしまいます。

このガラス戸は、松葉の組子だけでなく、はめ込まれているガラスの種類も注目に値します。
松葉の組子のある最上段は透明ガラスが左右2枚、そこから下は対象的に、目隠しガラスです。
すぐ下の段は左右にすりガラス、中央には梨地ガラスの細かい凹凸が、きらびやかに斜線を描いています。
そして最下段は縦縞のモール(あるいはリブライン)ガラスです。
計4種の7枚のガラスが、一枚の扉に贅沢に使われていることになります。
そして松葉の組子や、4種のレトロガラスに加えて、興味深い点がもう一点、それは鍵の位置です。
レトロな鍵が床(畳)から30センチほどの低い位置についています。長く使われなくなったこの鍵も珍しいですが、その低い位置に鍵がつけられているのは、更に珍しいのではないでしょうか。

時代劇では、武家屋敷や商家の部屋に出入りする際、膝をつき、丁寧に扉を開け閉めしている場面が見られます。そのように、膝をついて、扉を丁寧に開け閉めした時代の習慣により、鍵がこの位置につけられているのです。
この仏間一間だけでも、感心することしきりです。
前述の松の差鴨居の上に、採光窓があります。豪雪で建物が深く雪に埋まってしまうため、採光窓は高い位置に設けられています。
左側は、縦繁の幅狭な格子の縦横の細い線が美しいです。ガラスは梨地で外光を透して雪のように輝いています。
ガラス面が大きい右側は、すりガラスです。即ち、左右の採光窓で、異なるガラスが使われています。
下の写真を見ると、谷崎の陰翳礼讃を思わせるような影と光のコントラストの世界が、ここにはありますね。

松の差鴨居下の障子戸は、小間(こま)付きすみ円障子です。
ガラスの小間から、外の景色を眺めることができると同時に、外からは直接光が入ります。
障子紙部分は、横繁(よこしげ)吹寄(ふきよせ)の洒落たデザインとなっています。
小間(こま)付きすみ円障子の小間の高さも、先ほどの鍵の位置同様に、仏間の畳に腰を下ろした目線にあることがわかります。
客間の建具も見てみましょう。
下の写真は、客間東側の襖です。松竹梅の上に、珍しい曲線で構成された組子細工が、和紙の白に映えていますね。

珍しい組子細工の湾曲部の美しさ、立体感が、下の写真でお分かりいただけると思います。

二階、そして三階部へ上ると、当家で養蚕が行われていたことがうかがえます。
下の写真は、三階に残っていた蚕を飼育する道具で、蚕箔(さんぱく)といいます。
この上に蚕莚(さんえん:わらを編んで作った養蚕用のむしろ)か、蚕座紙(さんざし:蚕を育てる時、蚕の下に敷く紙)を敷いて、蚕座(さんざ:蚕の居場所)をつくるものです。

三階では、梁組みの構造が見られます。
長さ六間(約11メートル)、太さ1尺(約30センチ)を超える立派な梁が、でんと横たわり、この大きな邸宅を支えています。

下の写真は、三階からさらに高くへと架けられた、長いはしご階段を上がった先にある四階部(屋根裏)です。
茅葺屋根の裏側が露わで、茅葺の造りが良くわかります。ここを改修すれば秘密基地的なロフトにできますね。(承継樓でもロフト化した部分です。)

下の写真では、西面を改築した際に、茅葺が切り落とされた断面と、写真中央には、又首の尖った先端を、梁が受け止めている様子を確認できます。

客間の敷居にも、この家の格の高さがうかがえるものがありました。
敷居は、その上で建具を開け閉めするため、消耗が激しく、狂いが生じると開け閉めに影響が出るので、特に強度が要求されます。また、目につきやすい部所なので、化粧面の美しさも重視されます。
そのため、敷居には、一般には檜木や栂(つが)、ハイグレードの場合には松、欅、花梨などの木材を使用します。
当邸では、まず欅が敷居が使われています。

そして珍しい梨の敷居もあります。

梨は木目が目立たないので、当邸の客間の敷居として敢えて選ばれて使われており、梨の木から長い敷居となる分の材料を採り出すのは難しく、とても貴重です。
こういった細部においてさえも、当邸の格の高さがうかがえます。
当邸について詳しくお知りになりたい方は、下のお問い合わせを通じてご連絡ください。